頌和塔(近思公園) 福野北部地域づくり協議会

福野北部地域づくり協議会

頌和塔(しょうわとう)の由来


(一)野尻村彰忠碑(通称忠魂碑)
大正13年(1924)1月4日、帝国在郷軍人会野尻村(のじりむら)分会主催により、西南戦争参加者の宮田勝蔵命をはじめ、日清戦争日露戦争での戦没者十三柱の御霊(みたま)の合同慰霊祭が行われました。
先の多くの戦死者に加え、更に昭和7年(1932)の1月に起きた第一次上海事変で3名が戦死されましたので、在郷軍人会野尻村分会では、同年4月13日の役員会議で忠魂碑建設を満場一致で決議しました。 村当局や議会をはじめ各方面に呼びかけ、全村挙げて賛同を得ました。

建設を決議してから2年余りの歳月をかけて、青銅砲身型の御標(みしるし)に「彰忠(しょうちゅう)」の金文字を浮き彫りにした塔柱、それを支える花崗岩の基礎、その四隅に青銅の狛犬を配置した野尻村忠魂碑が竣工しました。

昭和9年9月、竣工式、除幕清祓式(きよはらいしき)、碑前 招魂祭が行われました。

完成した忠魂碑と分会役員

【野尻村彰忠碑建設事業・工事概要】
一、設  計 高岡工芸学校
一、狛犬原型 福光町  松村秀太郎
  (日露戦争の勇士 田島孫次、米原龍蔵寄進)
一、石材工事 般若村安川  田中庄蔵
一、青銅砲身、狛犬対製作
       富山県高岡市 内島伊次
一、「彰忠」文字揮毫
    帝国在郷軍人会長 陸軍大将 鈴木荘六

☆昭和7年11月22日 地鎮祭
   土盛り工事は、分会員と青年団員総出の奉仕
☆昭和8年6月 石材工事完了
   同年8月 村内有志者の寄付で境内に植樹
☆昭和9年8月 青銅砲身等搬入
   分会員等120人の奉仕

忠魂碑搬送

※野志里史話から引用
※心のよりどころ近思公園から引用

昭和16年12月8日に勃発した大東亜戦争(太平洋戦争)は熾烈を極め、青銅砲身型の御標、四隅の狛犬、台座の青銅の扉が供出されました。

昭和19年8月に慰霊祭、金属製品供出奉告祭、遷座祭が行われ、彰忠碑内に安置の御霊代は、石武雄神社へ奉遷(ほうせん)されました。

昭和20年8月23日の慰霊祭後は、連合国軍の占領下であったため、しばらくの間、慰霊祭は中断されました。

*御霊代(みたましろ) 神霊の代わりとして祭るもの
*遷座(せんざ) 神仏の座を他所へ移すこと
*奉遷(ほうせん)神体などを他所へ移すこと


*石武雄神社(いわたけおじんじゃ)
 ☆所在地 富山県南砺市野尻711


(二)野尻村彰忠碑から福野北部地区「頌和搭」へ

昭和23年(1948)、終戦後の「彰忠碑」の見るに忍びない荒廃を憂えた五嶋賢治氏等の努力によって、台座上に「頌和搭(しょうわとう)」の碑を建立されました。
般若村安川 の上田石材店に依頼し、台石中央に「頌和搭」の文字を刻字した花崗岩の石塔が竣工(しゅんこう)しました。
頌和塔は、平和国家を築くために勲功を尽くされた戦没者の徳を褒め称え、御霊をご供養申し上げる霊域となりました。
花崗岩の石塔に刻字された「頌和塔」の文字は、西方寺住職が命名され、当時福野北部小学校諭の今井辰蔵の揮毫(きごう)です。
当時(昭和23年)は占領下 であり、慰霊祭等の式典は行われませんでしたが、昭和32年秋、頌和搭副碑 が設立することになり、11月20日の夕刻、野尻石武雄神社に仮遷座の御霊代を13年ぶりに頌和搭へ奉還(ほうかん)しました。[10月17日地鎮祭を行った後、頌和搭台座後部の木の蓋を石造りに改め、樹木を捕植し広場の玉砂利を整備しました]
つづく
福野北部地域づくり協議会
福野北部交流センター(近思会館)

2019年4月
「福野北部地域づくり協議会」発足に伴い、これまで皆様に愛されてきた福野北部公民館は『福野北部交流センター』へと名称変更いたしました。
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お盆・年末年始の休館日は都度お知らせします

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住所:富山県南砺市野尻652-2
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2024年08月25日

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